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内本町の魅力 大坂町奉行所跡

 

大坂町奉行(おおさかまちぶぎょう)は、江戸幕府が大坂に設置した遠国奉行の1つです。

老中支配下で大坂三郷(大坂の町を北組、南組、天満組の3つに分けて呼んでいました)及び摂津・河内国の支配を目的としていました。

 

当社から松屋町筋を北へ100mほどいったマイドーム大阪の前に大坂西町奉行所跡があります。

大坂西町奉行所の跡地には、維新のあとに、初代大阪府庁が建てられていたのも有名です。

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大坂東町奉行所跡は、大阪合同庁舎第1号館前にその碑があります。

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元々、大坂の東西の奉行所は、大坂城北西出入口である、京橋口門の外に設置されていたが、享保9年(1724年)の大火で両奉行所ともに焼失した教訓から、東町奉行所は京橋口に再建され、西町奉行所は本町橋東詰の内本町橋詰町に移転されました。

 

この大坂東町奉行所の与力だったのが大塩平八郎です。

江戸の末期、天保の大飢饉で百姓一揆が多発していました。

大坂でも米不足が起こり、大坂東町奉行の元与力であり陽明学者でもある大塩平八郎(この頃は養子の格之助に家督を譲って隠居していた)は、奉行所に対して民衆の救援を提言したが拒否され、仕方なく自らの蔵書五万冊を全て売却し(六百数十両になったといわれる)、得た資金を持って救済に当たっていました。

しかし、大坂町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)は大坂の窮状を省みず、豪商の北風家から購入した米を新将軍徳川家慶就任の儀式のため江戸へ廻送していました。

飢饉に合わせ、大坂奉行所の不正、役人の汚職を訴え、1837年2月19日 大塩平八郎の乱を起こします。民衆は、北船場の鴻池や天王寺屋、平野屋、三井など、先日紹介した辺りを襲撃し、大坂の町の五分の一を焼き払いましたが、半日で、鎮圧されてしまいました。

 

幕府の元役人が大坂という重要な土地で反乱を起こしたことは幕府の人間合わせ全国の人々にかなりの衝撃を与えました。この事実は、日本全国に伝えられました。

また、大坂から都が近いこともあり、幕府から朝廷にも報告がされるなど、朝廷からは諸社に対して豊作祈願の祈祷が命じられ、また朝廷の命により幕府がその費用を捻出しています。

幕府が朝廷の命令をそのまま認めたことが、幕末・維新に向かい、幕府の権威が下がり、朝廷の権威が上昇していく兆しと見ることができます。

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